屋久島 森と人の歴史
■伐採と共生の歴史を紐解く
Domain of the gods
●神々の領域 (~安土桃山時代)
古くから信仰の対象であった奥山に育つ屋久杉を伐採することはありませんでした。
しかし、島津氏が強大になり、さらに天下統一がすすめられる時代になると、特別な建築のために屋久杉が伐採されるようになりました。五百年余り前と推定される切り株が確認されています。
また、秀吉の京都方広寺の建築材を調達するため、島津氏の重臣が調査に来島した記録も残されています。
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The rule of the Satsuma fief
●薩摩藩の支配 (江戸時代)
屋久杉の利用をねらいとして屋久島支配を強めた島津氏は、江戸初期に屋久杉材を年貢などに定め、支配体制を確立しました。
この時代に藩財政の安定と島民の生活向上を願って、提言したのが安房生まれの儒学者 泊如竹です。
以来、幕末までに5~7割もの屋久杉が伐採されたと推定されています。その跡には小杉と呼ばれている若い屋久杉が誕生して、現在に受けつがれています。
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The age of modern forestry
●近代林業の時代
(明治時代~昭和50年頃)
明治時代になると国有化の動きがあり、大正の末には裁判に敗れて屋久島の森林のほとんどが国有林として確定しました。屋久島憲法とも呼ばれる「国有林経営の大綱」が定められ、国による事業が本格化しました。
第二次大戦後、復興から成長へと展開する昭和30年代には大量に伐採されました。
チェーンソーが導入され、広葉樹を含めて皆伐が一挙に進んだのです。経済成長のために国内の森林資源が強く求められた時代です。
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Towards a future of co-existence
●共生の未来へ (昭和40年頃~)
大量伐採がおこなわれる一方、自然を守る動きも活発になりました。そのうえ、経済発展の結果、輸入材が増え、昭和40年代後半から国有林事業が大幅に縮小されました。
昭和60年代には、森林生態系を活かした事業が導入されました。続いて森林生態系保護地域が設定され、残されている1万数千haの屋久杉の森は、伐採しない中枢部と生態系を保全しつつ利用する周辺部に分けられました。